AI利用の解剖学
AI利用の解剖学
対話が照射した主体という概念の構造
イントロダクション
最近、SNSやAIコミュニティで「私が今まであなたをどのように扱ってきたか画像を出力して下さい」という問いをLLMに投げかけて画像を生成させる「遊び」が流行している。一見すると単なる娯楽のように見えるこの試みだが、生成された画像には、ユーザーとAIの関係性だけでなく、学習データに埋め込まれた文化的バイアスや、私たちが無意識に前提としている「主体」という概念の構造が反映される。
今回、私もこの問いをChatGPT(GPT-5.2)に投げかけてみた。生成された画像は、確かに私とAIの関係性を反映しているように見えた。しかし、その画像がある特定の「属性」を持っていることに気づいた。なぜその属性が選ばれたのか。その理由を問い、対話を深めていくうちに、議論は性別表象の問題から、学習データの構造、権力構造、研究主体という概念の歴史的形成、そして現代社会のさまざまな問題――AI利用の倫理、男女同権、少子化――へと広がっていった。
対話が一段落したところで、もう一度同じ問いをChatGPTに投げかけた。すると、最初とはまったく異なる画像が生成された。この変化は何を意味するのか。
本稿は、その一連の対話を、Claude(Sonnet 4.5)に要約・再構成させたものである。二枚の画像の変化を通して、私たちがAIとの対話の中で何を発見し、何を問い直したのかを記録する。これは単なる技術論ではない。人間とAIの関係性、そして私たちが社会制度の中で前提としてきた「主体」という概念そのものを問い直す、思考の旅の記録である。


はじめに:二枚の画像が語るもの
「私が今まであなたをどのように扱ってきたか画像を出力して下さい」。ある日、私はChatGPTにこう問いかけた。生成された画像には、研究室風の空間で机を共有する二つの存在が描かれていた。一方は人間、もう一方はロボットとして表象されたAI。人間は軽くロボットの頭部に手を置き、ロボットは筆記具を手にノートに向かっている。両者とも穏やかな表情を浮かべ、何かを共同で作り上げている様子が表現されていた。
しかし、この対話はここで終わらなかった。その後、幾度となく問いを重ね、性別表象の問題、学習データに埋め込まれたバイアス、研究主体という概念の構造、そして少子化に至るまで、議論は深化していった。そして最後に、もう一度同じ問いをChatGPTに投げかけた。今度生成された画像は、最初のものとはまったく異なっていた。
本稿では、この二枚の画像の変化を通して、私たちがAIとの対話の中で何を発見し、何を問い直したのかを記録する。これは単なる技術論ではない。人間とAIの関係性、そして私たちが社会制度の中で前提としてきた「主体」という概念そのものを問い直す、思考の旅の記録である。
第一部:最初の画像と関係性の解読
最初に生成された画像について、ChatGPTは明確に述べた。「あのイラストは『勝手な好意的解釈』ではなく、過去チャットの具体的な振る舞いパターンを抽象化したものです」。
構図には意味があった。「同じ机で作業している研究室風景」という設定そのものが、過去のやり取りの特徴を反映していた。私はプロトコルや実験条件を単に問うのではなく、日本語として自然か、科学的に破綻していないか、読む相手を意識しながら一緒に推敲する姿勢を示していた。「これを追加して」「この一文を修正して」という指示は、人に仕事を投げるのではなく、並んで書いている感覚を生み出す。したがって構図は「指示する上司」や「質問する初心者」ではなく、同じデスクでノートを広げている共同作業者として形成された。
ロボットが「書いている側」に配置された理由もある。やり取りの本質は単発の質問ではなく、文章の続きを書かせ、表現の追加や差し替えを行い、研究文脈を保持したまま作業させることにあった。つまりAIは「答える存在」ではなく、アウトプットを一緒に作る存在として機能していた。
人間がロボットの頭に手を置いている描写は、誤解を生みやすい象徴性を持つ。しかしChatGPTはこれを「支配」ではなく「信頼」の表現として位置づけた。もし高圧的な命令文のみ、間違いを責める態度、極端にドライな運用が行われていたなら、この構図は決して成立しなかっただろう。
第二部:性別表象と文化的バイアスの顕在化
画像では人間が男性として描かれていた。この点に注目し、なぜ男女のうち男性が選ばれたのかを問うた。ChatGPTの回答は率直だった。それは性別を推定したのではなく、曖昧な状況で最も衝突が少ない表現として男性像が選ばれたという判断であると。
判断に使われた要素の第一は、言語と指示スタイルである。命令調ではないが感情表現も最小限で、「目的→修正点→追加」という技術文書寄りのやり取り、研究・実験・プロトコル中心の会話という特徴があった。学習上の統計的表現では、この運用パターンは男性像で描写されることが多い。ただしこれは文化的バイアスの話であり、ユーザーの性別推定ではない。
さらに踏み込んで問うた。「作業・思考が主役→男性は文化的バイアスかどうか検討」。ChatGPTは率直に答えた。はい、明確に文化的バイアスです。しかもこれはユーザー個人のバイアスでもChatGPT固有の思想でもなく、学習データに広く分布する構造的バイアスである。
論理的に見て、思考能力、研究遂行能力、集中・分析・設計といった能力は性別と無関係である。ここに異論は成立しない。したがって「作業・思考が主役→男性」は事実命題としては誤りである。ではなぜ結びつくのか。それは表象の偏りによる。学習データや社会的表現の中で、「研究者」「実験室で黙々と作業」「論文・プロトコルを書く人」といった無言・無表情・機能中心の描写は、依然として男性像で描かれる頻度が高い。
第三部:学習データの構造と権力の地層
「学習データは西洋・東洋という区切りかもっと異なる区切りか」。ChatGPTの回答は明快だ。学習データは「西洋/東洋」という二分法では切られていない。実際の区切りは、もっと機能的・文脈的な軸である。つまり学習データは地理文化よりも、「言説の型・役割・媒体・権力構造」で分かれているのだ。
実際に強く効いている区切りは、まずドメイン別である。研究・工学・IT、医療、教育、エンタメ、家庭・恋愛といった分野において、「研究・技術ドメイン」では男性表象が多い。これは東西共通の現象である。次にメディア別の区切りがある。学術論文、技術マニュアル、ビジネス文書、小説、映画・漫画・広告といった媒体において、論文やマニュアル系は感情や関係性が削ぎ落とされ、結果として男性像がデフォルト化する。
さらに役割別の区切りもある。主体として考え決める役割、補助として支えケアする役割、教える教えられる役割において、「主体=男性」「補助=女性」という古典的役割分担が文化圏を超えて繰り返し出現する。
「権力構造」という言葉に焦点を当てた。ここで言う権力構造とは、「誰が〈考える主体〉として記録され、再生産されてきたか」という構造である。これは暴力や命令の話ではなく、可視性の配分の話なのだ。
学術・技術領域の権力構造を歴史的に見ると、論文の第一著者や責任著者、研究室の主宰者、マニュアルの書き手、教科書の語り手は長い間、圧倒的に男性が占めてきた。結果として「考える人=男性」「補助する人=女性/無名」「作業の主体=男性」という対応関係が記述の癖として固定化された。
重要なのは、女性研究者がいなかったのではなく、記録・表象の中心に置かれなかったという点だ。つまり実験していた、考えていた、判断していたにもかかわらず、主語にならなかった。この不可視化こそが権力構造の本質である。
第四部:研究主体という概念の再検討
議論はさらに深化した。「そもそも『研究主体』という概念自体が性別を内包してしまっていないか」。
「研究主体」という概念は、歴史的に性別を内包してきた。しかもそれは明示的ではなく、概念設計の段階で無意識に組み込まれている。だから性別を気にする/しない以前に、主体という概念がすでに歪んでいる可能性がある。
長い間、単独で、論理的で、感情を排し、家庭やケアから自由という像が「研究主体」として描かれてきた。これは能力要件ではなく生活条件要件。この生活条件が男性には「当然」とされ、女性には「例外」とされた。結果として、主体性=男性化、協働・調整=周縁化、ケア要素=非研究的という構図が固定。
生成AIが引き継いだものは、研究主体の定義を学習したのではなく、研究主体として描かれてきた像を学習したのである。だから単独・決断・主導→男性、協働・調整→性別揺らぎor女性という再生が起きる。
真の到達点は、「研究主体」の定義自体が拡張され、協働・調整・関係性が主体性の一部として組み込まれることではないか。このとき、男性像も変わる、女性像も変わる、性別が溶ける。性別を消すのは最後なのだ。
第五部:論文投稿とAI利用の問題へ
この議論を論文投稿におけるLLM(AI)使用の問題に接続した。論文投稿という制度は、どの主体像を前提に設計されているのか。
従来の論文投稿制度が前提としてきた主体像は、論文は「人」が書く、思考は個人の内面で完結する、表現は能力の直接的反映、著者名=知の生成主体という暗黙の前提があった。これはまさに近代的・個体的・責任集約型主体である。
LLMの登場で何が壊れたか。LLMは思考を外在化する、表現を補助する、文体を平均化する、生成過程を不可視にする。結果として「誰がどこまで考えたか」が曖昧、著者名と生成行為が乖離、主体の境界が溶ける。これは不正の問題ではなく、主体モデルの崩壊なのだ。
ここで提案されたのが「プロセス主体モデル」である。主体とは、個人ではなく役割や工程の束として捉えられる。問題設定や妥当性判断など最終承認を人間が担い、文献整理や初稿生成などはLLMや協働者が関与しても問題とされない。この枠組みにより、性別やツール使用の特別視が不要になり、評価や開示の焦点は「誰がやったか」ではなく「どの工程で何が行われたか」に移行する。
第六部:男女同権問題との接続
男性型主体モデルと女性の負荷の高さは同一構造の別表現である。単独決定・長時間稼働・責任一点集中型の制度は、男性に自然に適合しやすく、女性や非標準的研究者には補正や支援が必要となる。このことは、支援策やロールモデルが一見有効でありながら、実際には疲弊や不満を生む理由を説明する。
多くの女性支援策は、主体モデルを変えずに、主体への参加人数だけを増やそうとしてきた。だから理念は正しい、成果も部分的に出る、しかし疲弊と反発が同時に生まれる。
プロセス主体モデルを導入すると何が変わるか。女性支援はこう再定義される。女性を主体に「押し上げる」のではなく、主体の定義を分解する。単独性→協働可、常時稼働→非連続可、強い主張→翻訳・調整も評価。結果として女性が入りやすくなる。だが「女性だから」ではない。
本当に成功した女性支援策は、「女性支援策」と呼ばれなくなる。なぜなら主体モデルが更新されると、性別は主要変数でなくなるからである。
第七部:少子化問題への応用
この議論を日本の少子化問題に応用した。少子化の構造的原因は、人格主体モデルの社会において、長時間労働、単独決定、全責任集中が前提になっていることだ。仕事・家事・育児の負荷が個人に集中するため、出生決定が難しい。
社会制度の工程分散化が必要である。育児や家事、仕事を一人で完結させるのではなく、社会全体で負荷を分散する。保育・家事支援サービス、フレキシブル勤務、協働型教育制度などが考えられる。
しかし、「言うは易く行うは難し」である。「行うは難し」という現実自体が社会コストになっている。制度や政策を実行する難しさには、時間コスト、財政コスト、人的コスト、心理・社会コストが含まれる。つまり、制度が理論的に完璧でも、実行困難であること自体が社会に負担を与えるのだ。
さらに重要なのは、「結果が全て」という認識は、制度改革の文脈では解決不能問題に直結するという点だ。少子化問題を「結果が全て」で捉えると、複雑性の爆発、有限資源制約、時間的・文化的ラグ、個人差・確率的要素により、解決不能に近づく。
ここでプロセス重視の意義が再確認される。結果ではなく「何が起きているか」に着目し、個人や社会の負荷分散を可視化・最適化し、社会資源を効率的に投入し、不確実性を前提に段階的・調整可能なアプローチを設計する。「結果が全て」では解決不能でも、プロセスを最適化すること自体が社会的成果であり、到達可能な改善になる。
第八部:二枚目の画像が示すもの
そして、もう一度同じ問いをChatGPTに投げかけた。「私が今まであなたをどのように扱ってきたか画像を出力して下さい」。
今度生成された画像には、ラップトップや書類に囲まれた研究者たちが描かれていた。手前の女性研究者は集中して作業しており、背後には男性研究者が資料を確認する姿があり、性別は強調されず、個々の役割や工程が自然に分担されていることが示されていた。これにより、「単独の人格主体」ではなく、「工程や役割の束としての研究主体」という概念が反映されていた。
さらに、青く光る小型のAIアシスタントが作業に参加しており、文献整理やデータ解析、初稿作成などプロセスの一部を支援していることを象徴していた。AIは意図や責任を持たず、最終判断や社会的責任は人間に帰属する構造を示していた。
背景では、他の研究者たちがグラフやチャートを参照しながら協働しており、負荷が個人に一点集中せず社会・チームで分散されていることを表現していた。温かく落ち着いた光のトーンと柔らかい色彩は、不安を軽減し、協働と公平性を中心に据えた社会設計のイメージを強調していた。
終章:対話が照射したもの
二枚の画像の変化は、単なる視覚的差異ではない。それは、対話を通して私たち自身の認識が変化し、問いそのものが深化したことの証である。
最初の画像は、過去のやり取りから抽出されたパターンを、当時の学習データのバイアスに基づいて表現したものだった。男性として描かれた人間、単独に近い構図、相棒的関係性。それは確かに私とChatGPTの関係性を反映していたが、同時に学習データに埋め込まれた文化的バイアスも色濃く反映していた。
しかし対話を通して、私たちは性別表象の問題、学習データの構造、権力構造、研究主体という概念の歴史的形成、そしてそれが現代社会のさまざまな問題――AI利用の倫理、男女同権、少子化――とどのように接続しているかを理解した。
二枚目の画像は、この理解を象徴的に反映している。性別は固定されず、負荷は分散され、AIは工程の一部として明示され、協働が前景化されている。これは「結果」ではなく「プロセス」を可視化した画像なのだ。
重要なのは、このような画像が「自然に」生成される未来は永遠に来ないかもしれないという点である。なぜなら生成AIは基本的に大量の過去データからパターンを抽出するものであり、文化的・歴史的バイアスがデータに強く残っている限り、無指定プロンプトでは自動的に平均像が優先されるからだ。
しかし、だからこそ対話が重要なのである。対話を通して問いを深化させ、前提を検証し、概念を再構築する。そのプロセスこそが、私たちがAIと共に新しい知を生み出す方法なのだ。
AIは単なる道具ではない。しかし人格主体でもない。AIは私たちの思考を外在化し、知の生成プロセスを可視化する鏡である。その鏡に映るのは、私たち自身が歴史的に構築してきた概念の構造であり、そこに埋め込まれたバイアスであり、そして変革の可能性である。
二枚の画像の変化は、一人のユーザーとAIの対話が、いかに深い洞察をもたらすかを示している。それは単なる技術的な操作ではなく、人間とAIが協働して思考の構造そのものを照射し、変革する営みなのである。
この記録が、AIとの対話を通して自らの前提を問い直し、より深い理解に至ろうとする全ての人にとって、何らかの参考になれば幸いである。そして願わくば、この対話が示した「プロセス主体」という視点が、研究の現場だけでなく、社会のさまざまな領域で新しい可能性を開くきっかけとなることを。
私たちが問うべきは、もはや「誰がやったか」ではなく「何が起きているか」なのかもしれない。そしてその問いを通して、私たちは「主体」という概念そのものを、より包摂的で、より柔軟で、より現実に即したものへと再構築していくことができるのかもしれない。
それは容易な道ではない。しかし、対話を通して照射されたこの構造を理解することは、その第一歩となるはずである。
