東大耳鼻科は「安全・安心・思いやりの医療」「先進の技術開発」「専門医研修の充実」を高いレベルで実現することを目指しています。

教室の歴史

教室の沿革


東京大学耳鼻咽喉科学教室の開講は明治32年(1899年)11月11日である。岡田和一郎は外科医であったが耳鼻咽喉科学教室を開くミッションのためにドイツのFrankel教授とTrautman教授の教室に留学して学び、同年12月25日帰国後直ちに講座担当となり、明治33年1月19日外来診療を開始した。診療には初めドイツ医師スクリバの住居が当てられた外国教師館の建物を利用した。その後医学部本館で診療がなされた。33年4月“Beiträge zur Pathologie der sogenannten Schleimpolypen der Nase nebst einigen Bemerkungen über Schleimfärbungen”および“Die otochirurgische Anatomie des Schläfenbeins”の二論文により学位を授与された。明治35年3月に教授となり、特に外科的治療に力を入れ、耳性頭蓋内合併症、中耳根治手術、喉頭全摘などの手技を輸入、開発し、その方面に多大な貢献をした。

 

吉井丑三郎は明治35年帝国大学医科大学卒業し、39年よりスイスのバーゼル大学に留学、Siebenman教授のもとで生体固定法を創始し、内耳の病理組織学的研究に画期的寄与をなした。明治42年に発表された論文“Experimentelle Untersuchungen über die Schädigung des Gehörorgans durch Schalleinwirkung”はヘルムホルツの共鳴説に初めて実験的根拠を与えたものである。大正7年9月、医長となり東京大学医学部附属病院分院に赴任(分院は明治30年に内務省医術開業試験場として設立され、大正6年8月に東京帝国大学に移管、平成13年4月に医学部附属病院との組織統合により閉院)。大正13年11月教授となったが一日で辞職し開業した。

 

増田胤次は明治43年東京帝国大学を卒業し、大正8年より2年半スイスに留学しSiebenman教授に師事、内耳病理を研究した。同13年「内耳の回転刺激に関する研究」により学位を授与された。昭和7年教授となる。全身の問題を重視し、脚気と聴器障害との関係をはじめ、糖尿病などの耳鼻咽喉科領域に及ぼす影響、聴器の老年性変化、副鼻腔炎と眼の関係などを研究された。同21年軍人であったためGHQの圧力で退職した。

 

 

颯田琴次は大正9年東京帝国大学を卒業、昭和3年講師、分院医長となる。同6年「音響刺激による耳殻反射運動の実験的研究」により学位を授与され、附属病院に音声言語障害診療部門を設置した。同10年助教授、同18年教授となる。発声、発語機構の生理学的研究に従事し、我が国における実験音声学のパイオニアである。聴覚の研究も行い、聴覚閾値、絶対音感、方向知覚など聴覚心理上の諸問題についての業績がある。音声医学の専門家であったが当時の文化人でもあった。

 

切替一郎は昭和8年東京帝国大学を卒業、昭和17年帝国女子医学薬学専門学校教授となる。同18年復職して講師、同年「発声時における声門開閉運動の時間的関係に関するストロボ映画による研究」により学位を授与された。昭和22年教授となる。研究は多岐にわたり、声帯振動にはじまる研究は医学部における音声言語医学研究施設の創設につながり、初代施設長としてこの方面の研究に尽力した。この時代の特徴は,従来の耳科学の枠を破り中耳伝音機構から聴覚中枢の認知機序まで、すなわち末梢から大脳皮質に至るまで基礎研究も臨床研究も広範囲に取り組み,かつその成果が国際的にも注目されるようになったことである。切替教授は研究成果の国際的発表に努力し、特に中耳伝音機構の研究は東京大学出版会の初めての英語の単行本「The structure and function of the middle ear」 として出版され、同時に同名の英語のナレーションのカラー映画も作製された。この時代は,我が国の耳科学および聴覚医学の基礎を作った時代と言える。昭和44年3月定年退官。

 

佐藤靖雄は昭和19年東京帝国大学を卒業。「人間鼓室小骨に関する研究」により学位を授与された。昭和45年1月教授となる。耳鼻咽喉科全般にわたる広範囲の臨床研究を行ったが、なかでも耳小骨の構造と機能を研究し鼓室形成術の進歩に貢献した。また頭頚部悪性腫瘍、特に上顎腫瘍の治療に独自の三者併用療法を開発し、治療成績を著しく向上させたのみならず、頭頚部癌集学治療を考案した。この治療法は現在超選択的動脈注入法に発展している。昭和55年3月定年退官。

 

野村恭也は昭和31年東京大学卒業。昭和36年、「Capillary permeability of the cochlea」「Observations on the microcirculation of the cochlea」の2論文により学位を授与された。37年より2年間ハーバード大学のSchuknecht教授に師事。昭和55年教授となる。昭和57年より同63年まで厚生省特定疾患急性高度難聴調査研究班の初代班長として突発性難聴、ムンプス難聴、外リンパ瘻について全国規模の研究を推進した。組織学、組織化学の方法による聴器の解剖・病理の研究を主に行い、病態の不明な内耳性疾患、特にウィルス性疾患、外リンパ瘻などの病態の解明を進め、臨床面では世界に先駆けてレーザー内耳手術を開発し、耳科学の発展に貢献した。平成3年9月退官。平成3年10月昭和大学耳鼻咽喉科学教室教授就任。平成4-8年日本耳鼻咽喉科学会理事長。平成9年3月昭和大学教授退任。現在、国際耳鼻咽喉科振興会理事長。

 

加我君孝は昭和46年東京大学卒業。昭和55年に「核黄疸の聴性脳幹反応と前庭眼反射」に関する研究により学位を授与された。昭和57年医学教育研究のため米国ジェファーソン医科大学へ、昭和59年海馬とP300起源の研究のため米国UCLA医学部脳研究所へ留学。平成4年教授となる。大学院重点化により外科専攻、耳鼻咽喉科学・頭頸部外科学と脳神経専攻・感覚運動神経科学を担当した。研究は、聴性脳幹反応(ABR)を中心に乳幼児の難聴・中枢聴覚障害・中枢聴覚生理・側頭骨病理、平衡の発達や認知などを行った。平成8年には新しい疾患Auditory nerve diseaseを発見し、また新生児聴覚スクリーニングの普及とその後の精密聴力検査、難聴児の教育の進歩に貢献した。耳科手術では全中耳再建術、小耳症・外耳道閉鎖症に対する手術、人工内耳手術、聴覚脳幹インプラント手術の導入に貢献した。このほか医学部教育改革委員会委員長、全学の医学教育国際協力研究センター長など歴任。附属病院では患者サービス委員会委員長としてボランティア、院内学級、患者図書室やクリスマスコンサートなどの導入を行った。平成19年3月定年退職。

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