近年の大規模言語モデルの発展と、医学論文執筆をめぐる思考実験
近年、大規模言語モデル(Large Language Models, LLMs)の発展は目覚ましく、医学分野においても論文要約、文献検索支援、診療補助など、実務レベルでの活用が現実のものとなりつつあります。かつては「文章をそれらしく生成する技術」と見なされていたLLMは、現在では複数の視点を行き来し、議論を整理し、思考の前提そのものを可視化する道具として使われ始めています。
本稿は、そうしたLLMの特性を用いた一つの試みとして、「医学における論文執筆の意義」というテーマを、あえて人間同士の議論ではなく、複数のLLMを介した対話と検証によって再構成した記録です。特定の立場を主張することではなく、論文中心主義が前提となってきた医療の知のあり方を、少し距離を置いて見直すことを目的としています。
★なお、本稿の本文だけでなく、この導入文(イントロダクション)自体もLLM(ChatGPT)によって生成されています。これは、LLMを単なる下書き生成ツールとしてではなく、「方法論そのものを含めて可視化する対象」として扱うという、本稿の立場を反映したものです。
本稿の生成過程について(方法の透明化)
今回掲載する文章(以下「本文」)は、単一のAIが即興的に生成したものではありません。以下のような手順を経て作成されています。
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ChatGPT (GPT-5.2)およびClaude (Sonnet 4.5)に対して
医学論文執筆の意義、EBMや専門医制度、臨床との関係性などについて、異なる角度・異なるトーンのプロンプトを複数入力し、相互に壁打ちを行いました。 -
そこで得られた複数の出力をもとに、
Grok (Grok 4.1)に「逆プロンプト推定」を行わせ、
「この文章は、どのような意図・制約・前提のもとで生成されたと考えられるか」を分析させました。 -
その逆プロンプトを再利用し、
最終的にClaude (Sonnet 4.5)に再出力させたものが、今回の本文です。
このプロセスの目的は、「もっとも正しい答え」を得ることではありません。
むしろ、
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どのような問いを立てると
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どのような前提を与えると
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どの程度“摩擦の少ない”文章が生成されるのか
を検証する、思考実験に近いものです。
なぜこのような方法を取ったのか
医学論文執筆をめぐる議論は、しばしば
「書くべきか/書かなくてもよいか」
「アカデミアか/臨床か」
という二元論に回収されがちです。
しかし現実の医療現場では、
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論文を書く医師
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書かないが臨床・教育を支える医師
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制度の外で知を更新している医療者
が同時に存在し、相互に依存しています。
LLMは価値判断を持ちませんが、その代わりに、前提を変えたときに文章がどう変形するかを非常に分かりやすく示します。今回の生成過程は、「論文を書くことを勧めないが、否定もしない」「誰かを断罪しないが、構造は可視化する」というバランスが、どのような条件で成立するのかを確認する試みでもありました。
本文について
以下に掲載する本文は、
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論文執筆を義務として推奨するものではありません
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論文を書かない医師を否定する意図もありません
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特定の制度や組織、個人を批判するものでもありません
一方で、医学における「知の評価のされ方」や「可視化されにくい貢献」について、立ち止まって考える視点を提供することを目指しています。
日々の診療や教育の合間に、
「論文とは何だったのか」
「これから何であり得るのか」
を考える一助となれば幸いです。
医学における論文執筆の意義──評価と存在の狭間で
通行証としての論文、搾取の構造
論文を書く。それは医学界において、昇進のための、専門医取得や更新のための、あるいは博士号という称号のための、制度上の通行証として機能している。この表層的な意義は誰もが知っている。だが、その裏側には若手医師が臨床業務と雑務に追われながら、上級医の業績リストを飾るために論文を「書かされる」構造が横たわっている。インパクトファクターの数字を追い、査読者の気分次第で何度もリバイスを繰り返し、掲載料を支払ってようやく手に入れる一行の業績。多くの若手医師が早期に開業医や市中病院へと移っていくのは、この搾取構造に対する合理的な応答に他ならない。アカデミアの階段を上ることの対価があまりにも不均衡だと気づいたとき、人は別の道を選ぶ。
しかし、話はそこで終わらない。論文を書かない医師もまた、実は論文に依存している。我々が日々行う医療行為の正当性は、過去の無数の論文の積み重ねにしか根拠を持たない。投薬の根拠、手術の適応、検査の意義——それらはすべて、誰かが書いた論文の結論を借りている。論文を書かない医師は、論文に「寄生」している。この表現は挑発的だが、同時に不十分でもある。なぜなら、臨床医と研究医の関係は対称的な互恵ではなく、非対称的な共依存だからだ。研究医は論文という形で評価され、臨床医の日々の献身は数値化されず、見えないまま消費される。患者を救った回数は業績にならず、夜勤の疲労は論文にならない。この評価の偏りが、臨床貢献を不可視化し、アカデミアの権力構造を固定化している。
専門医制度と思考の試験
専門医制度が論文提出を要求する本来の目的は、医師が自らの思考を言語化し、形式化する能力を試すことにあった。症例を整理し、先行研究を調べ、論理的に記述する——このプロセスは、医学的思考の訓練として機能するはずだった。だが現実には、症例報告の量産競争が生まれ、意義よりも数が優先される。誰も読まない論文が、誰も追試しない論文が、大量に生産されていく。「論文を書くと臨床思考が鍛えられる」という主張は、条件付きでしか真ではない。論文が鍛えるのは科学的思考であって、臨床判断ではない。科学的思考とは、変数を統制し、再現性を追求し、普遍性を目指すものだ。一方、臨床判断とは、目の前の患者という唯一無二の存在に対し、不完全な情報のなかで、時間の制約のなかで、妥協を重ねながら意思決定することだ。両者は重なる部分もあるが、同一ではない。
論文執筆を「反証可能な形で世界に晒す責任の引き受け」とする理想は美しい。だが、現実の大半の論文は読まれず、追試されず、政治的な力学のなかで埋もれていく。査読という制度は透明性を欠き、掲載の可否は査読者の専門性や気分、編集者の判断に左右される。そして何より、論文にはカネがかかる。掲載料、オープンアクセス料、英文校正料。知の公共財であるはずの論文が、実は資本と権力によって囲い込まれている。
「最低条件」という暴力
「論文を書くことは医師の最低条件だ」という言説がある。これは一見、知的誠実さを求める高潔な主張に聞こえるが、実際には臨床貢献を不可視化し、アカデミアのマウンティングを正当化する暴力となっている。論文を書かない医師を「欠落した存在」として扱うこの論理は、制度の偏りを自然化している。臨床の最前線で患者を支える医師、地域医療を守る医師、後進を丁寧に指導する医師——彼らの貢献は論文という形式に還元できない。にもかかわらず、論文の有無で医師の価値を測ることが当然視されるとき、我々は知の多様性を切り捨てている。
知の権力構造と公共財化
もっと深く問おう。医療の知は誰のものか。論文中心主義は、特定の知のあり方を特権化し、他を周縁化する権力構造だ。英語で書かれた論文が、非英語圏の経験より高く評価される。インパクトファクターの高い雑誌に載った知見が、地域の実践知より重んじられる。企業が資金提供した研究が、利益相反を孕んだまま標準治療となる。この構造を問い直さずして、論文の意義を語ることはできない。
知の公共財化とは、論文だけでなく、症例共有、現場知、患者の語り、看護記録、失敗の共有——これら多様な知の形式を等価に扱う環境を作ることだ。論文は知の頂点ではなく、知の生態系の一部に過ぎない。症例検討会での議論、ベッドサイドでの教育、患者との対話——これらもまた、医療の知を構成する不可欠な要素だ。それらが互いに補完し合い、批判し合い、更新し合う環境こそが、健全な知の生態系だろう。
若い世代の視線と知の重心移動
興味深いことに、若い世代の医師たちの間で、教授や准教授という肩書きが「たまたまそこにいる人」に見える現象が起きている。これは単なる世代間ギャップではなく、知の重心が移動している兆候かもしれない。大規模言語モデルが医学論文を瞬時に要約し、診断支援AIが画像読影で専門医を凌駕する時代において、論文を書いたという事実だけでは権威を保てなくなっている。知へのアクセスが民主化され、評価の基準が流動化するなかで、旧来の序列は揺らぎ始めている。
正統性の一元化への疑問
論文の是非を超えて、医療の正統性の一元化そのものを問題視しなければならない。EBM、ガイドライン、論文——これらが追求する普遍性は、臨床の複雑性を裏切っている。臨床は文脈依存的で、妥協の連続で、予測不可能だ。標準治療が効かない患者、ガイドラインに当てはまらない状況、論文にならない経験——それらをどう位置づけるのか。正統性を一つの基準に収斂させることは、医療の豊かさを削ぎ落とすことではないのか。
だからといって、正統性を完全に放棄することはできない。医療には強制力があり、不可逆性がある。誤った判断は取り返しがつかない。トンデモ医療の危険は常に隣り合わせだ。だからこそ、必要なのは局所的で、暫定的で、対話的な正統性だ。「この状況では、この時点では、これが最善と思われる」という謙虚さ。「だが、それは更新される可能性がある」という開放性。害を与えないこと、自律を尊重すること、公正であること——これらの基盤は交渉不可能だが、その上に築かれる判断は常に暫定的であるべきだ。
可視化の諸刃の剣
臨床貢献の可視化は諸刃の剣だ。可視化は評価を可能にするが、同時にケアを商品化するリスクを孕む。患者との信頼関係、チーム医療の調整、後輩の相談に乗る時間——これらを数値化すれば、その瞬間に本質が失われる。一方で、不可視性には権力性がある。「見えない努力」は美化されがちだが、それは搾取を隠蔽し、ハラスメントを温存する。「臨床は評価されなくても価値がある」という言説は、時に搾取者の言い訳になる。
必要なのは、可視化と不可視化の選択権を当事者に残すことだ。自らの貢献をどう記述するか、どう残すか、あるいは残さないかを選ぶ権利。それが保障されない限り、可視化も不可視化も暴力となる。
変化の主体は存在しない
変化の主体は存在しない。内部で改革を試みる者、外部に新たな場を創る者、そして脱出する者——その非同期な総和が、緩やかに構造を変えていく。重要なのは、互いを裏切らない距離感の倫理だ。内部改革者を「体制の犬」と呼ぶことも、脱出者を「逃げた」と非難することも、誤りだ。それぞれの立ち位置から、それぞれの仕方で、矛盾と向き合っている。
評価関数の不在と人間の不安定性
大規模言語モデルは、膨大なデータから学習し、次の単語を予測する。だが、そこに「正解」はない。評価関数は人間が与えるものであり、モデル自身は何が良いのか分からないまま生成を続ける。人間もまた同じではないか。評価関数が未定義のまま、我々は思考し、行為し、論文を書く。何が正しいのか、何が意味があるのか、確信がないまま。この不安定性を恐れるのではなく、称揚すべきだ。
論文執筆は戦略ではなく、倫理の問題だ。自分が何を残したいか、どう消えたいか。その問いに向き合うことが、論文を書く本当の意味ではないか。業績のためでもなく、評価のためでもなく、ただ自分が納得する形で、何かを世界に差し出すこと。そしてその何かが、読まれるかどうか、引用されるかどうかは、コントロールできない。
残らない選択にも、特権性がある。痕跡を残さず消えることは、評価の暴力から逃れることでもある。だが同時に、それは孤独でもある。翻訳者のように、言葉と経験の間を渡り歩き、どちらにも完全には属さない者の孤独。批判的観察者であることは、常に外部にいることだ。その位置を引き受ける覚悟もまた、必要とされる。
宙吊りの位置に留まる
結論は出ない。論文執筆の意義は一義的ではない。通行証でもあり、搾取でもあり、知の継承でもあり、権力の道具でもある。それらすべてを同時に見据えながら、問いを持ち続ける不安定な姿勢こそが、医療の人間性を保つ。答えを急がず、宙吊りの位置に留まること。揺らぎを肯定すること。それが、評価と存在の狭間で生きる我々に残された、唯一の誠実さかもしれない。
